グスタフ・ルネ・ホッケ『絶望と確信』:第1章「不安と絶望」を読む【危機の時代を生き残る読書】①

はじめに―「絶望」の蔓延

 本記事は、グスタフ・ルネ・ホッケ(種村季弘訳)『絶望と確信―20世紀末の芸術と文学のために―』について紹介する。

今日のコロナ禍や格差社会などで「絶望」ほど日常に染み付いた言葉はないだろう。まるで希望を語ることが虚しくなるくらい、成長経済を背景とした業績重視型社会は、1人の人間を、否応なく「数値化・学歴(ないしは経歴や国籍や性別や肌の色)」によりイメージ化・レッテル化しようとする。

 一人の人間は、この世に生まれた時から既に「親の数値化・学歴」によりイメージ化され、22歳を過ぎた社会人の頃には、今度は自分の経歴における「数値化・学歴」によりイメージ化されてしまう。

 本ブログは「不平等社会」については語らない。この問題についての議論はもう昔からなされており、結論は出ていない。実際、この不平等なヒエラルキー社会は肌感覚として存在するし、問題の本質はそこではない。

 だが、人間の「イメージ化」に視点を移せば、状況は異なる。業績社会の問題はもとより、社会制度による人間の測定を把握できる。

 このような現代の「人間のイメージ化」現象について、ドイツの文学者グスタフ・ルネ・ホッケは、「マニエリスム」(Manierismus)という文化的兆候から、以下のような項目を通じて診断している。

  1. 不安と絶望
  2. 希望と確証
  3. 秘境的象徴表現
  4. 深層美学
  5. 総合

この記事では、特に第1章を飾る「1. 不安と絶望」について感想を綴っていく。

そのため、この記事の読者は、人文科学の分野から「現代の危機・病」(不安と絶望)がどのようにアプローチされているか、多少なりとも知見を得ることができるはずだ。

 目次は以下の通りである。

目次

①グスタフ・ルネ・ホッケとは誰か?

ホッケは重要人物です

そもそもグスタフ・ルネ・ホッケ(Gustav René Hocke, 1908-1985)とは誰だろうか?

 ホッケは、1908年3月1日にブリュッセルで生まれたドイツ文学者・美術史家である。父はドイツ人商人、母は宮廷画家の娘でもありフランス系ベルギー人であった。ホッケは、ドイツで最初ベルリン大学で、その後ボン大学で学んだが、特にボン大学での文献学者・ロマンス文学者エルンスト・ローベルト・クルツィウスの下で学んだ精神史の手法から多大な影響を受ける。パリへの留学で築いた研究を基に、クルツィウスの下で学位請求論文「フランスのルクレティウス」を完成し哲学博士号を取得。大学を終えた後、ジャーナリストとしてケルン新聞日曜版付録「現代の精神」を編集する。

 1937年にはイタリア旅行を敢行し、特に「マグナ・グラエキア」(大ギリシア植民地地帯)とも呼ばれる南イタリアの遍歴を通じ、そこで、アジア的側面と混淆したヨーロッパ精神の原風景を見出す。この遍歴体験は後に旅行小説『マグナ・グラエキア』(1960)として上梓されるが、学術書においても、マニエリスム論三部作として名高い『迷宮としての世界』(1957)、『文学におけるマニエリスム』(1959)、『絶望と確信』(1974)の中で、「不一致の一致」など独創的かつ一貫した思想となって響きわたる。上記の4冊については、ドイツ文学者・種村季弘による日本語訳がある。 

(以上は、種村季弘「著者紹介」〔グスタフ・ルネ・ホッケ〈種村季弘訳〉『文学におけるマニエリスム-言語錬金術ならびに秘境的組み合わせ術』所収〈平凡社, 2012〉)などを参考にした)

②マニエリスムとは何か?

「マニエリスム」はマンネリズムじゃありません!

「マニエリスム」とは、簡単にいうと、芸術や生活文化において「アイデアを視覚化する手法」の先鋭化、つまり「手法主義」だといえる(色々と議論があるが)。

 古代ギリシアの哲学者アリストテレスの文学論『詩学』において、詩とは「技術」の一種であった。そしてその「詩」は現実の事物を「再現・模倣(「ミメーシス」)する」ことで実現するが、「ミメーシス」とはただの模倣・再現のことではなく、必然的な論理で自然(普遍性?)を詩において実現しようとする指標でもあった。ホメロスの『オデュッセイア』などがその実例として挙げられている。

 これに対しホッケは、17世紀ヨーロッパの芸術家たちがこの「ミメーシス」に対して「ファンタスティコン」(ギリシア語で「イマジネーションに関わる」)という概念を強調していたことに注目する。つまり、「円環状の自然的調和」(ミメーシス)対「幻想・楕円形」(ファンタスティコン)という対立図式の登場である。

 17世紀の芸術家たちは、自然の模倣(ミメーシス)ではなく、事物の鏡像として観念に投影された「ファンタスティコン」の実現の方に苦心する。いわば「ファンタスティコン」とは、幻想(ファンタジー)文学・絵画などの源泉だったのだ。その際芸術家は、日常世界とは真逆の世界(ファンタジー)の表現のために、その創作工程において、超絶的な「技巧」を要求されるようになっていった。ここでホッケは、ラテン語で「手」を意味するmanus(「マヌス」)から派生した概念 maniera(「マニエラ」=イタリア語で「手法」)が一つの思想となった歴史的状況に注目する。その思想とはつまり、「マニエリスム」(Manierismus)のことである。ホッケによれば、古今東西において常に、調和的・体系的な古典主義に抵抗するように出現した思想ーそれがマニエリスムなのである(ヘーゲルの「体系哲学」VS  初期ロマン派の「断片」のように)。

③「意味の喪失」という病

Photo by Dan-Cristian Pădureț on Unsplash

 では、ホッケは『絶望と確信』において、この「マニエリスム」という視座から、20世紀後半という現代をどのように照らし出したのだろうか。

このマニエリストは、容赦無く20世紀、それも1970年代に散見される問題を炙り出している。ドラッグ・カルチャーの蔓延、ポルノ文化の洪水、環境破壊、核エネルギー問題、国家間の経済的摩擦、経済格差から生まれる貧困・飢餓という精神的・肉体的暴力、「描写不可能な」数値化された戦争……。これらの黙示録的状況の延長線上に、21世紀の私たちは確かに立ち尽くしている。

 そして1970年代にこの本を出版したホッケは、これらの負の現象をこう診断する。これらは「意味の喪失」(Sinnlosigkeit)から生まれる絶望である、と。「意味の喪失」という兆候は、精神医学者としてナチスの強制収容所体験を記録(『夜と霧』)したヴィクトール・フランクルに由来している。

 ユダヤ人でもあったフランクルは、第二次世界大戦下ではアウシュヴィッツ強制収容所の被収容者の一人だが、そこで他の被収容者を観察した結果、精神的な憩い、つまり「意味」が過酷な収容所で生き残るためにいかに大事な灯だったかを告白している。当時の名もなき被収容者たちを支えていたもの、それは「愛する者の精神的存在」「宗教」「芸術」「ユーモア」だった。フランクル自身にとっても、自分の妻が肉体的存在として生きているか否かはもはやどうでもよく、「精神的存在」として彼女が自分の心の中にいるという信仰こそ、生き延びるための糧であった。

 フランクルは、1965年にはこう発言している。

「今日では多くの人間に、彼らの本能は何をなさねばならぬかを教えてくれず、伝統は何をすべきかを教えてくれない。やがて彼らは、自分がそもそも何をしたいのかさえもわからなくな」る。

グスタフ・ルネ・ホッケ(種村季弘訳)『絶望と確信-20世紀末の芸術と文学のために-』(白水社, 2013),46頁.

 ホッケは、このような「意味の喪失」の病のことを、キリスト教の「罪」や「ロゴス」(言葉)などの精神文化への不信から生まれる、ある平衡を失った状態であると定義する。つまり、テクノロジー崇拝や人を介さずにモノで快楽を充足させる代理行為などがあまりに自明の文化となってしまったため、マニエリスムの条件としての「古典主義」(この場合キリスト教・体系思想など)が空虚な言説として「時代遅れ」の烙印を押されるようになった状況だ、というのだ。

 その結果、過度なテクノロジー至上主義や薬物による人体実験が猖獗し、人間は身長・体重・性別・年齢・顔貌などの「データ」でイメージ化されてしまう。「データ」は人間を分かり易く視覚化するが、同時に差別・格差を繁茂させる材料となる。「救済」や「希望」という素朴で美しい観念を失った人々はリアルな絶望から自殺するようになり、反面、組織を支配する制度的人間が、「数値データ」により「下部」に属する労働者たちを測定するようになる。

 今日ほど、数値化しやすい「成長」「成功」「業績・実績」「収入」というワードが威圧的に鳴り響き、その一方で「人格」「悔悛」「復活」「和解」というワードが虚弱に響くような社会が他にあっただろうか(第二次大戦期は別として)?「意味の喪失」は数値による「人間のイメージ化」をもたらし、人間そのものを破壊し、ひいては組織と社会を衰退へと貶めていくのだ。

 ホッケは『絶望と確信』で、「意味の喪失」から過度に人工的・技術的な実験と発展を目指す社会に対し、こう警鐘を鳴らしている。

「マニエリスムなき古典主義は擬古典主義、古典主義なきマニエリスムは衒奇趣味」

グスタフ・ルネ・ホッケ(種村季弘訳)『絶望と確信-20世紀末の芸術と文学のために-』(白水社, 2013),66頁.

「マニエリスムなき古典主義は擬古典主義」とは「退廃芸術展」で前衛芸術を迫害し「誰にでも分かる」古典主義芸術・技術主義を称揚したナチズムのことであり、「古典主義なきマニエリスムは衒奇趣味」とは「意味」を見失い過度な技術的実験と成果に価値を見出した現代社会のことだと私は思っている。

 現代の問題を知る上で、グスタフ・ルネ・ホッケの『絶望と確信』は、今日にこそ読まれるべき警告の書なのだ。

(参考文献)

・グスタフ・ルネ・ホッケ(種村季弘訳)『絶望と確信-20世紀末の芸術と文学のために-』(白水社, 2013)

・アリストテレース『詩学』・ホラーティウス『詩論』(松本仁助・岡道男訳)(岩波書店, 2001)

・グスタフ・ルネ・ホッケ(種村季弘訳)『文学におけるマニエリスム-言語錬金術ならびに秘境的組み合わせ 術』所収(平凡社, 2012)

・ヴィクトール・E・フランクル(池田香代子訳)『夜と霧−新版-』(みすず書房,2016)

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